Masuk翌日、私はレディースクリニックを訪れ、診察を受けていた。
離婚と彩寧の登場という二つの衝撃的な出来事で一睡もできず、心なしかお腹に痛みがあるように思えたからだ。
私は親友で、担当医でもある幸恵に連絡をした。
幸恵は、今日はクリニックの勤務が休みだったが、すぐに駆けつけてくれた。 そして私のお腹にエコーを当てて、子供たちの様子を確認してくれた。「大丈夫よ。二人ともなんともないわ。でもね、妊娠初期の妊婦にストレスと不眠は大敵よ。充希はもともと妊娠が難しい体質だから、もし流産なんてしたら大変よ。もう二度と子供ができなくなる可能性だってあるんだから、くれぐれも注意してね」
検査を終えた私と幸恵はクリニックの近くにあるカフェテリアに入った。
「それで、その後、宗司とは何も話をしてないのね?」
幸恵の追及に私はコクンと頷く。
「それっきり宗司さんは部屋に籠ってしまって……。今朝も早くから会社に行ってしまったわ。……私とは一言も喋らず……」
私がギュッとドリンクのカップを握って悲しむと、幸恵は「おのれ、宗司め~っ!」と怒りを露わにした。
そして「充希を悲しませるなんて絶対に許せない! 今すぐその性根を叩き直してやる!」と息巻いた。
幸恵は、宗司に対して態度が厳しいが、それには理由があった。
実は私と幸恵、そして宗司の三人は同じ中高一貫校の同級生だったのだ。
しかも幸恵と宗司は同じ剣道部で、幸恵が部長、そして宗司が副部長で、二人は旧知の間柄だったのだ。
私は今にも飛び出しそうな幸恵の手をとって、まずは落ち着いてもらおうとなだめた。
幸恵は私に手を握られると、深いため息をつきつつ、私の手を握り返してくれた。
「そうね。私の方が興奮しちゃ駄目ね。一旦、落ち着くわ」
私は幸恵が落ち着いてくれて安心した。
「それで? どうするの?」
落ち着いた幸恵は私を心配して尋ねてくれた。
私は色々悩んだが、やはり宗司と話をしないことにはどうにもならないと考え、その旨を幸恵に伝えた。
その考えに、幸恵は賛同してくれた。「そうね。一人で悩んでいたってしょうがないものね。
わかったわ。幸いお腹の子供たちは大丈夫だから、途中で転んだりしないよう気を付けるなら、宗司の会社に行くことを許可してあげるわ」幸恵は私の担当医っぽく、意図的に偉そうな言い方で冗談めかし、私を後押ししてくれた。
幸恵は「私も一緒に行こうか?」と提案してくれたが、私は断った。
これは私たち夫婦の問題。 自分たちで解決しないといけない。 その為、私は一人で夫の会社に向かった。 * * *電車を乗り継ぎ、私は宗司の会社に初めてやって来た。
これまで、宗司の会社を訪れる機会はなく、今回が最初の訪問だった。見上げる程の高層ビルは、私の実家が経営する大和田グループのビルに勝るとも劣らない立派な社屋だった。
私は宗司が担う責務の大きさを改めて実感した。 このビルにいる社員や業務など、ヒト・モノ・カネの全てに宗司は責任を持つのだ。 その重責の重さは計り知れない。 そう考えると、杵島グループの社屋の大きさに、私は怖ささえ覚えたが、意を決して入り口の自動ドアをくぐった。「確か社長室はビルの最上階だと宗司は言っていたはず……」
私は微かな記憶を頼りにエレベーターホールに向かう。
そして各階案内を見てみると、確かに最上階に社長室という記載があった。ここに宗司がいる。
私は迷子が親を見つけたような安堵感を覚え、エレベーターの呼び出しボタンを押そうと手を伸ばしたが、そうした矢先、私は受付の女性に呼び止められた。
「あの、お客様。失礼ですが、当ビルは社員でない方のご入館はお断りをしておりまして……」
「弊社社員とお約束でしょうか? もしそうでしたらこちらでお名前とご用件をお願い致します」私は受付に促された。
「私は杵島 充希です。約束はしていませんが、社長に会いたくて……。通していただいても宜しいですか?」
私がそう申し出ると、受付にいた二人の女性は怪訝そうに顔を見合わせた。
「杵島社長にお会いになりたいのですか?」
「失礼ですが、社長はご多忙で、お会いになるにはご予約が必要なのですが……」私は明らかに懐疑的な目で見られ、慌てて弁明をした。
「私は杵島 宗司の妻です。夫に話があって来たんです。直接、会って話がしたいのです」
私はそう訴えたが、受付の女性二人はますます困り顔になった。
「社長の奥様ですか……。あの、失礼ですが、もし宜しければ身分証明書か何かを見せていただけないでしょうか?」
私は自分が不審者だと疑われている事に気づき、慌てて身分証を証明できるものがないかバッグの中を確認した。
「社長の奥様でしたらスマホで直接社長にご連絡をされた方が良いかもしれませんが……」
そう言われたが、実は私は宗司の電話番号も、SNSなどの連絡ツールも何も知らされていなかった。
私は過去に、宗司に「もしもの時の為に、電話番号くらいは教えて欲しい」と申し出たが、偽装結婚なのでそんなものは必要ないと断られていたのだ。私は、宗司に直接連絡できない理由を「私たちは夫婦ですが偽装結婚なので連絡先を交換していないんです」とは言えず、苦し紛れに「スマホをなくしてしまって……」と嘘をついた。
受付の女性は一応は納得してくれたが、私のことを不審に思う気持ちは払拭されなかったようだった。
「ねえ、社長の奥様って、確か……」
「ええ。最近、総務に新しく入った女性が、実は社長婦人じゃないかって噂されているわよね……」 「そうよね。私も社長とその女性が一緒にいる姿を見たけど、とっても仲が良さそうだったわよ」 「それじゃあ、この女性は一体……? まさか社長夫人を語る偽者……?」受付の女性二人は顔を寄せ合って小声でヒソヒソと話したが、折悪しく、私は二人の会話の内容が聞こえてしまった。
私は今、自分がかなり不審に思われていることを痛感した。
そして、それもさることながら、自分以外の誰かが宗司の妻だと噂されていることに驚いた。どうしてそんなことが……!?
私は動揺し、ますます探し物が見つからなくなってしまった。
気持ちが焦り、乱暴にバッグの中を掻き回したが、その落ち着きのない様子が、ますます受付の女性二人の懐疑心を刺激してしまった。私は寝不足というコンディションもあって、気が動転しそうになったが、その時、「あの……。どうかしましたか?」と、声を掛けられた。
私が振り向くと、そこには一人の男性が立っていた。
「私は杵島社長の秘書の者です。失礼ですが、あなたは杵島社長の奥様ではありませんか?」
私は突然そう言われ、驚くと同時に、自分のことをわかってくれる人物が現れたことに喜んだ。
しかし同時に、どうしてこの秘書の方は、私が宗司の妻だとわかったのか不思議にも思った。 * * *「やはりそうでしたか」
私が宗司の妻であると伝えると、秘書の男性は笑顔になった。
「どうして奥様のことを存じ上げているのかというと、社長はご自分のデスクに奥様の写真を飾られていて、私はその写真を拝見したことがあったからです。
さらに社長は奥様の写真のことに触れられると、写真を見せながら奥様自慢をされるんですよ。ですので奥様のことはよく存じております。何やら料理がお得意で、オーブン料理がとても美味しいらしいですね」それを聞いて私は喜んだ。
宗司は私の写真をデスクに飾り、仕事をしてくれていたのだ。 仕事が忙しく、家にもなかなか帰れず、偽装結婚ということもあって、会社では私の事など気にもかけてくれていないと思っていたが、宗司は私のことをいつも身近に留めておいてくれていたのだ。 奥様自慢は少し恥ずかしかったが、私は身体の芯に小さな明かりが灯ったように温かみを感じた。 そして急速に自信が湧いてきた。 話し合えば大丈夫。昨晩は離婚届を突き付けられて動揺したけど、今ならちゃんと宗司と話し合える。 そしてそうすれば宗司も離婚届のことは何かの間違いだったと言ってくれる。 * * *秘書の男性は、受付の女性に内線で社長を呼ぶよう指示をしてくれた。
私は、ほっと胸を撫で下ろした。 危うく不審者と思われ、取り合ってもらえない所だったが、容疑は晴れ、これで宗司にも会うことができそうだ。しかし、内線で宗司を呼び出してくれていた受付の女性は、しばらくして眉を寄せると、申し訳なさそうに私に結果を伝えてきた。
「奥様、申し訳ありません。社長は今、席を外しておりまして……。どうやら昼食に出られているようなんです」
それを聞いて私は時計を確認する。
確かに今はちょうど昼休みの時間だった。すると秘書の男性が「きっと社長はすぐに戻られますよ。お掛けになってお待ちになってはいかがですか?」と私に来客用のソファを勧めてくれた。
私は「そうさせてもらいます」と言って、ソファに腰掛けた。程なくして私は温かいお茶を出してもらったが、そのお茶を一口いただいた時、私は先ほど、受付の女性二人が話していた噂話のことが気になった。
総務に新しく入った女性が社長の奥さんではないかと噂されている件だ。
私はあることをすぐに思い出す。
それは宗司が「彩寧が戻った」と言った言葉だ。 これが「最近、総務に入った女性」と合わさり、私はすぐに彩寧が宗司の妻だと勘違いされていることを推察した。私は言い知れぬ不安と胸騒ぎ、そして不快感を覚え、心が千々に引き裂かれた。
まさかよりにもよって彩寧が宗司の妻と勘違いされるなんて……。
私は胃がキュッと固くなり、吐き気にも似た悪寒が込み上げる不快感に襲われた。
そんな嫌な気持ちを和らげようと、私は温かいお茶をもう一口いただく。 温かいお茶が喉を通ることで、私はほっとした気持ちになり、どうにか落ち着きを取り戻すことができた。するとその時───。
私は宗司が帰ってくる姿を見つけた。
私は喜びでパッと笑顔になる。 しかし、次の瞬間、異変に気付いて表情が急速に強張った。宗司は一人ではなかった。
宗司は女性と一緒だった。そしてその女性は宗司の腕に抱きついていて、二人は談笑しながら会社に戻って来ていた。
その女性は彩寧だった。
私は自分の足元の床が崩れたかのような落下感を覚えた。
彩寧は宗司の妻だと会社で噂されている。 その事と相まって私は激しい眩暈に襲われた。そして楽しそうに談笑しながら歩く二人の姿を、私はただ黙って見ている事しかできなかった。
宗司は私に気付かず、そのまま彩寧と二人でエレベーターに乗り込んでいった。
* * *その後、私はどこをどう歩いて自宅に帰ったのか……。
それさえも覚えていない程、私はショックを受けていた。 そして自宅に戻ると、昨日、宗司に突き付けられた離婚届を取り出し、妻の欄に自分の名前をサインすると、そのまま身一つで家を飛び出した。------ 【登場人物】 ------ ▼杵島 充希(きじま みつき)/旧姓:大和田 充希 宗司と三年という期間限定の偽装結婚をするが双子を妊娠。 これを機に、偽装結婚を解消し、本当の夫婦になることを宗司に提案しようとするが、妊娠が判明したその日に、宗司から離婚届を突きつけられる。 ▼杵島 宗司(きじま そうじ) 充希の夫。充希とは幼馴染で、同じ中高一貫校に通った同級生。 充希が妊娠したことを知らずに離婚届を突きつける。 ▼藤堂 幸恵(とうどう さちえ) 充希の担当産婦人科医で親友。 充希、宗司と同じ中高一貫校の同級生で剣道部の部長。 ▼篠原 彩寧(しのはら あやね)/大和田 彩寧 充希の異母姉妹の妹。 中高一貫校の先輩である宗司が好きで、執着している。 ▼大和田 毅(おおわだ つよし) 充希の父。 大和田グループの社長。 ▼篠原 真紗代(しのはら まさよ)/大和田 真紗代 彩寧の母。大和田 毅の元妻。 自らの浮気が原因で大和田家を去る。 ▼忽那 碧(くつな みどり) 充希の産みの母。充希の父親の大和田 毅とは相思相愛。
「どうしてこうなった……」 宗司さんはがっくりと項垂れていた。「もう。宗司さん、まだそんなことを言っているの? もう式が始まりますよ。早く準備をしてください」「充希、俺は言ったはずだ。絶対にだめだぞ、と」「はいはい。そうでしたね。でも仕方ないじゃないですか。本人たちがお互いを好きになっちゃったんですから」「そうなるように仕向けたんじゃないのか?」「それは……。まあ、幸恵と私は親友だから、よくお互いの家を行き来していたし、接触機会は多かったとは思うけど。でも結婚まで話が進んだのはお互いの気持ちがあってのことよ。親や周囲がどうこう言って結婚させられるものじゃないわよ」「それはそうかもしれないが……」 宗司さんがそうやってグズグズしていると幸恵と秘書さんがやって来た。「なによ、宗司。まだうじうじ言っているの? そう言われるとね、私は自分の娘が気に入らないと言われているみたいで本当に不愉快なの。失礼だからやめてちょうだいよね」「そうですよ、宗司会長。娘を嫁に出す僕たちの気持ちも考えてください」 宗司さんは二人に責められて溜息をついた。「娘を嫁に出す親の気持ちなら、去年、うちの琴が武くんに嫁ぐときに嫌というほど味わった」「そういえばそうだったわね」「確かにそうでした。宗司会長があんなに泣くなんて思いもしませんでした」「お前も泣くぞ。絶対に泣く。泣くもんかと思っていたって泣けてしまうんだ」「そんなに脅さないでください。僕だって自信がないんですから」「恥ずかしいからやめてよね。父親らしく胸を張ってどっしり構えていてちょうだい」 幸恵が秘書さんの背中を叩いて喝を入れた。「でもまさか本当に私の子と幸恵のお子さんたちがクロスカップルになるとは思いもよらなかったわ」「本当にそうよね。去年は充希の琴ちゃんとうちの武が結婚して、今年はうちの巫と充希の勇くんが結婚するんだもの」 幸恵は溜息交じりだったが、とても嬉しそうだった。「武くんはお母さんに似て本当にかっこいいから、琴はそんな武くんが大好きみたい」「それでいうなら勇くんだって、お父さんの芯の強さに、お母さんの優しさが加わっているから、本当に理想的な好青年よね。うちの巫が好き
「お、お父さん。どうしてここに?」 私は予告なしに父・大和田 毅が現れたことに驚く。「充希の親友の幸恵さんがご出産されたと聞いたからお祝いとお見舞いにきたんだ。 幸恵さん、お久しぶりです。出産おめでとう。幸恵さんも充希と同じく双子をご出産されたと聞いて驚いているんですよ」 幸恵と私の父・毅は面識があった。 それは中高一貫校時代、私と幸恵はお互いの家を盛んに行き来していたので、その時に何度も会っていたのだ。「毅おじ様。お久しぶりです。そしてありがとうございます。今は無事に子どもが出産できて、とても喜んでいます」 幸恵はとてもかしこまった様子で返事をした。「いや、しかし、あのお転婆だった幸恵さんが二児の母になられたとは。娘の充希が子どもを産んだ時も驚きでしたが、それ以上に驚きですよ」 父・毅は冗談めかして幸恵をからかった。 その点をくすぐられると幸恵も弱いようで「もう。毅おじ様。やめてください」と恥ずかしそうだった。「あ、あの……。お父さ……。いえ、大和田さん」 狼狽えていたのは彩寧だった。 彩寧は私の父・毅が現れたことを本当に驚き、そして「どう対応して良いのか」について困っている様子だった。 それは先日、自分が篠原 真紗代と大和田 毅の子どもではなく、篠原 真紗代と杵島 巧三の子どもであるという事実を知らされたからだった。「彩寧。こっちにきなさい」 そんな彩寧を父・毅は優しく手招きする。 そして彩寧が自分の元にやってくると包み込むように抱きしめた。「お前は私の娘だ。誰がなんと言おうとお前は私の娘だ。だからお前も、これまで通り私のことを自分の父だと思って頼りなさい。何一つ引け目を感じる必要はない。私たちは親子だ。血の繋がりなんて関係ない。親子なんだ。そのことを絶対に忘れるんじゃないぞ」 父にそう諭されると、彩寧も両手を父に回し、父の胸に顔をうずめて涙を流した。「それで宗司社長。先日のお話の件ですが───」 ひとしきり彩寧と抱擁を交わした父・毅は今度は宗司さんに向き直る。「はい。大和田社長。杵島グループと大和田グループの合併の件ですが、ぜひ前向きにご検討いただきたいと思っております」 私は宗司さんの言葉に驚く。
「ずいぶんと賑やかね」「病院ではお静かに。他にも患者さんや妊婦さんがいる」 そう言って現れたのは彩寧と種村 崚佑だった。「彩寧!? それに崚佑も!?」 幸恵が二人の登場に声をあげる。 幸恵にとって二人は得意な間柄というわけではなかった。 彩寧は幸恵にとって、中高一貫校時代の剣道部の部活動で、真面目に練習に取り組まず、宗司さんの姿ばかり追いかける不真面目な部員で、剣道部の部長として幸恵は彩寧にほとほと手を焼いていた。 崚佑さんは大学時代の同級生だったようだが、ことあるごとに「あいつは見た目はイケメンだけど、中身はヤバイ奴なの」と警戒心をあらわにしていて、苦手にしている相手だということは周知の事実だった。「な、何をしに来たのよ、ふたりとも」 幸恵は警戒心をあらわにする。「何をしに来たって言うのはひどいですね。お見舞いと出産のお祝いに来たんです」 彩寧はお見舞いとお祝いの品を幸恵の夫である秘書さんに手渡す。「僕は産婦人科医として赤ちゃんを診に来た。うん。無事に産まれたみたい。問題はなさそう。でも不満がある。出産の担当医は僕にさせてもらいたかった」「ば……っ! ばかじゃないのっ!? そんなことさせるわけないでしょ! 顔見知りの、それも大学時代の同級生の男子に、自分の出産の担当医なんて、そんなことさせるわけないじゃない!」 幸恵はヒステリー気味に崚佑さんを非難する。 それに対して崚佑さんは、「なんで?」といった様子で小首をかしげていた。「そんなこともわからないの!? ノーデリカシー! やっぱりあんたはヤバイ奴だわ! 彩寧! やめなさい! 今すぐこんな男と付き合うのはやめなさい!」 そう言われた彩寧は目に見えて驚く。 そして実は私も驚いていた。「え? うそ。な、なんで? なんで幸恵部長は私と崚佑が付き合っていることを知っているの?」 「え? 彩寧って崚佑さんとお付き合いしているの?」 私と彩寧が驚く姿を見て幸恵は「当り前じゃない! それで隠しているつもりなの? 見え見えよ!」と息巻いた。「そ、そうなんだ。彩寧、それに崚佑さん。おめでとうございます」 私は二人を祝福した。「この前、赤ちゃんを預かったとき、彩寧さんはお礼に「なんでも言うことを聞いてあげる」といった。だから僕
「私が臨月の間に、そんなことがあったなんてね」 幸恵は病室のベッドの上でぐったりしていたが、最後まで私の話を聞いてくれた。「そうなの。本当に大変だったの。もう自分の赤ちゃんに二度と会えないんじゃないかと本当に怖かったんだから」 私は幸恵の傍らでリンゴの皮を向き、食べやすい大きさにリンゴをカットすると、餌付けするように幸恵の口にリンゴを運んだ。 幸恵は餌をねだる雛鳥のように口を開ける。 そして口の中にリンゴが入れられるとショリショリと音を立ててリンゴを食べた。「宗司も宗司よ。なにをしているのよ。父親としてはもちろんだけど、大企業の社長としての自覚があるの? 自分の子どもを奪われるなんて。これが身代金目的の誘拐だったらどうする気?」 幸恵にそう責められた宗司さんは居心地が悪そうだったが、真摯に反省しているようだった。「確かにその通りだった。迂闊だった。それ以降は二度とこのようなことがないよう、充希一人に任せっきりにせず、俺も子どもたちを今まで以上に気にかけ、守るようにしている」 宗司さんは反省の弁を述べたが、尚も幸恵に「最初からそうしてなさいよ」などとさらに責められ続けた。 私はそんな二人のやりとりに、少しだけ、中高一貫校時代の部活動のときのようだと懐かしんだ。「幸恵、それに充希さん、そして宗司社長! うちの子たちの健康チェックが終わって、新生児室に戻ってきましたよ!」 病室に駆け込んできたのは幸恵の夫にして宗司さんの会社で宗司さんの社長秘書をしてくださっている鬼灯 猿田彦さんだった。 とても興奮した様子で、早く来てくださいと盛んに私たちを手招きした。「幸恵は起き上がれるの? 新生児室まで行くことができるの?」 私は何とか起き上がろうとする幸恵を気遣った。「これまで何人もの妊婦さんに、産後だからといって寝てばかりじゃなく、立って歩いた方がおりものが早く排出されて良いと指導してきたの。そう言った本人が自分の言った通りにしないなんて絶対に許されないわ」 そう言うと幸恵は無理をしてベッドから降り、私と夫の秘書さんの肩を借りながらだが、一緒に新生児室まで歩いた。「少子化が叫ばれる昨今だけど、それでも赤ちゃんがいっぱいね」 私は新生児室に並んでいる赤ちゃんを廊下のガラス越し
「ずいぶんと立派なマンションだな。彩寧の言う「信頼できる人」はここに住んでいるのか?」「そうです。さあ、急ぎましょう」 先を急ぐ彩寧は言葉短く返事をすると小走りにマンションのエントランスに入った。 私と宗司さんも彩寧の後に続く。 ───ここに子どもたちが───私と宗司さんの赤ちゃんがいる。 会いたい。早く子どもたちに会いたい。 きっと子どもたちは母親がいなくて寂しくて大泣きをしているだろう。 私は子どもたちのそんな姿を想像して不憫でならず、自分も涙が出そうになった。「琴と勇、待っていてね。すぐに行くからね。すぐにお母さんが二人を助けるからね。そしてごめんなさい。お母さんがしっかりしていなかったために、あなたたち二人を不安にさせてしまって……」 私は自責の念に捉われつつ、祈るような気持ちで、彩寧がマンションのエントランスで、目的の部屋番号を入力してインターホンを鳴らすのを見守った。 程なくしてマンションの自動ドアが開いた。 おそらく、その「信頼できる人」が応答してくれたのだろう。 自動ドアを開けるボタン操作をしてくれたようで、私と彩寧、そして宗司さんは入室を許された。 私たちはすぐにエレベーターに乗り込み、最上階を目指す。 エレベーターのドアが開き、廊下に出た私はあることに気付いた。 ───赤ちゃんの泣き声が聞こえる。 私はその泣き声に聞き覚えがあった。 それは宗司さんも同じだった。「「琴と勇の声だ!」」 私と宗司さんの顔にパッと歓喜の表情が広がる。 居ても立ってもいられず、私と宗司さんは走り出し、赤ちゃんの泣き声が聞こえてくる部屋の前に走った。 彩寧も私たちと一緒に走り、到着するなりインターホンを鳴らした。 待つまでもなく、すぐに部屋のドアが開き、彩寧が言う「信頼できる人」が現れた。 その人物を見て私は驚く。「あ、あなたは……!」 その人物は種村 崚佑だった。「遅い。すぐ戻るっていうから赤ちゃんを預かった。なのにぜんぜん帰ってこない。約束が違う」 崚佑はご立腹の様子だった。「赤ちゃんが泣いているじゃない。あなたは産婦人科医でしょ? 赤ちゃんの扱いはお手のものじゃないの?」「妊婦さんのケアと出産が僕の仕
「お兄ちゃん、次の信号を右に曲がって」「あ、ああ。わかった。次の信号を右だな」「お兄ちゃん、信号を曲がったら道なりに真っ直ぐ走って」「あ、ああ。わかった。信号を曲がったら道なりに真っ直ぐ走る」 宗司さんの運転する車の助手席で、彩寧が宗司さんに道案内をする。「お兄ちゃん、そのT字路を右折して」「あ、ああ。わかった。T字路を右折するんだな」「あっ。お兄ちゃんっ。対向車が来ているっ。気をつけてっ」「わ、わかっている。ちゃんと対向車を認識している。それより、彩寧。その「お兄ちゃん」という呼び方はなんとかならないか?」 何度も何度も彩寧に「お兄ちゃん」と呼ばれ、さすがの宗司さんもまいってしまったようだ。「……そうね。確かにこの年齢で「お兄ちゃん」は子どもっぽいかもね。それじゃあ「お兄さん」でどう? ……いえ、まって。「お兄さん」だと、なんだか他人行儀に聞こえるわ。「お兄様」は……堅苦しい感じがするし、「兄上」は古風だし、「兄貴」はガラじゃないし。うーん。困ったわ。宗司先輩のことをなんて呼べばいいのかしら」「いや、お兄ちゃんの呼び方ではなく、俺を兄と呼ぶことをなんとかならないのかと言っているんだ。今まで通り、宗司先輩、もしくは宗司社長でいいじゃないか」 宗司さんはほとほと困り果てていた。「……だめです。宗司先輩。無理をしてでも宗司先輩を「兄」として呼ばないと」「なんでなんだ?」「……私も、まだ実感がなくて、それにやっぱりショックなんです。いきなり宗司先輩が自分の兄だなんて言われても、話が大きすぎて受け止めきれないんです。だから繰り返し宗司先輩を「兄」と呼んで、慣れないと───自分に言い聞かせないとダメなんです」 彩寧の苦悩はその通りだった。 いきなりこれまで想いを寄せていた相手が「兄」だと告げられたのだ。 その衝撃はどれほどのものか、私は自分に置き換えるまでもなく、彩寧の驚愕の程を共感した。「私は「お兄ちゃん」でいいと思うわよ。少し子どもっぽいけど、宗司さんが「お兄ちゃん」と呼ばれている姿はなんだかちょっと可愛いし。それに私は彩寧に「お義姉ちゃん」と呼ばれたいの。だから宗司さんは「お兄ちゃん」、私は「お義姉ちゃん」でどうかしら?」 私は宗司さんを助けるためにも提案を出した。「宗司先輩を「お兄ちゃん」と呼ぶの







