翌日、私はレディースクリニックを訪れ、診察を受けていた。
離婚と彩寧の登場という二つの衝撃的な出来事で一睡もできず、心なしかお腹に痛みがあるように思えたからだ。
私は親友で、担当医でもある幸恵に連絡をした。
幸恵は、今日はクリニックの勤務が休みだったが、すぐに駆けつけてくれた。 そして私のお腹にエコーを当てて、子供たちの様子を確認してくれた。「大丈夫よ。二人ともなんともないわ。でもね、妊娠初期の妊婦にストレスと不眠は大敵よ。充希はもともと妊娠が難しい体質だから、もし流産なんてしたら大変よ。もう二度と子供ができなくなる可能性だってあるんだから、くれぐれも注意してね」
検査を終えた私と幸恵はクリニックの近くにあるカフェテリアに入った。
「それで、その後、宗司とは何も話をしてないのね?」
幸恵の追及に私はコクンと頷く。
「それっきり宗司さんは部屋に籠ってしまって……。今朝も早くから会社に行ってしまったわ。……私とは一言も喋らず……」
私がギュッとドリンクのカップを握って悲しむと、幸恵は「おのれ、宗司め~っ!」と怒りを露わにした。
そして「充希を悲しませるなんて絶対に許せない! 今すぐその性根を叩き直してやる!」と息巻いた。
幸恵は、宗司に対して態度が厳しいが、それには理由があった。
実は私と幸恵、そして宗司の三人は同じ中高一貫校の同級生だったのだ。
しかも幸恵と宗司は同じ剣道部で、幸恵が部長、そして宗司が副部長で、二人は旧知の間柄だったのだ。
私は今にも飛び出しそうな幸恵の手をとって、まずは落ち着いてもらおうとなだめた。
幸恵は私に手を握られると、深いため息をつきつつ、私の手を握り返してくれた。
「そうね。私の方が興奮しちゃ駄目ね。一旦、落ち着くわ」
私は幸恵が落ち着いてくれて安心した。
「それで? どうするの?」
落ち着いた幸恵は私を心配して尋ねてくれた。
私は色々悩んだが、やはり宗司と話をしないことにはどうにもならないと考え、その旨を幸恵に伝えた。
その考えに、幸恵は賛同してくれた。「そうね。一人で悩んでいたってしょうがないものね。
わかったわ。幸いお腹の子供たちは大丈夫だから、途中で転んだりしないよう気を付けるなら、宗司の会社に行くことを許可してあげるわ」幸恵は私の担当医っぽく、意図的に偉そうな言い方で冗談めかし、私を後押ししてくれた。
幸恵は「私も一緒に行こうか?」と提案してくれたが、私は断った。
これは私たち夫婦の問題。 自分たちで解決しないといけない。 その為、私は一人で夫の会社に向かった。 * * *電車を乗り継ぎ、私は宗司の会社に初めてやって来た。
これまで、宗司の会社を訪れる機会はなく、今回が最初の訪問だった。見上げる程の高層ビルは、私の実家が経営する大和田グループのビルに勝るとも劣らない立派な社屋だった。
私は宗司が担う責務の大きさを改めて実感した。 このビルにいる社員や業務など、ヒト・モノ・カネの全てに宗司は責任を持つのだ。 その重責の重さは計り知れない。 そう考えると、杵島グループの社屋の大きさに、私は怖ささえ覚えたが、意を決して入り口の自動ドアをくぐった。「確か社長室はビルの最上階だと宗司は言っていたはず……」
私は微かな記憶を頼りにエレベーターホールに向かう。
そして各階案内を見てみると、確かに最上階に社長室という記載があった。ここに宗司がいる。
私は迷子が親を見つけたような安堵感を覚え、エレベーターの呼び出しボタンを押そうと手を伸ばしたが、そうした矢先、私は受付の女性に呼び止められた。
「あの、お客様。失礼ですが、当ビルは社員でない方のご入館はお断りをしておりまして……」
「弊社社員とお約束でしょうか? もしそうでしたらこちらでお名前とご用件をお願い致します」私は受付に促された。
「私は杵島 充希です。約束はしていませんが、社長に会いたくて……。通していただいても宜しいですか?」
私がそう申し出ると、受付にいた二人の女性は怪訝そうに顔を見合わせた。
「杵島社長にお会いになりたいのですか?」
「失礼ですが、社長はご多忙で、お会いになるにはご予約が必要なのですが……」私は明らかに懐疑的な目で見られ、慌てて弁明をした。
「私は杵島 宗司の妻です。夫に話があって来たんです。直接、会って話がしたいのです」
私はそう訴えたが、受付の女性二人はますます困り顔になった。
「社長の奥様ですか……。あの、失礼ですが、もし宜しければ身分証明書か何かを見せていただけないでしょうか?」
私は自分が不審者だと疑われている事に気づき、慌てて身分証を証明できるものがないかバッグの中を確認した。
「社長の奥様でしたらスマホで直接社長にご連絡をされた方が良いかもしれませんが……」
そう言われたが、実は私は宗司の電話番号も、SNSなどの連絡ツールも何も知らされていなかった。
私は過去に、宗司に「もしもの時の為に、電話番号くらいは教えて欲しい」と申し出たが、偽装結婚なのでそんなものは必要ないと断られていたのだ。私は、宗司に直接連絡できない理由を「私たちは夫婦ですが偽装結婚なので連絡先を交換していないんです」とは言えず、苦し紛れに「スマホをなくしてしまって……」と嘘をついた。
受付の女性は一応は納得してくれたが、私のことを不審に思う気持ちは払拭されなかったようだった。
「ねえ、社長の奥様って、確か……」
「ええ。最近、総務に新しく入った女性が、実は社長婦人じゃないかって噂されているわよね……」 「そうよね。私も社長とその女性が一緒にいる姿を見たけど、とっても仲が良さそうだったわよ」 「それじゃあ、この女性は一体……? まさか社長夫人を語る偽者……?」受付の女性二人は顔を寄せ合って小声でヒソヒソと話したが、折悪しく、私は二人の会話の内容が聞こえてしまった。
私は今、自分がかなり不審に思われていることを痛感した。
そして、それもさることながら、自分以外の誰かが宗司の妻だと噂されていることに驚いた。どうしてそんなことが……!?
私は動揺し、ますます探し物が見つからなくなってしまった。
気持ちが焦り、乱暴にバッグの中を掻き回したが、その落ち着きのない様子が、ますます受付の女性二人の懐疑心を刺激してしまった。私は寝不足というコンディションもあって、気が動転しそうになったが、その時、「あの……。どうかしましたか?」と、声を掛けられた。
私が振り向くと、そこには一人の男性が立っていた。
「私は杵島社長の秘書の者です。失礼ですが、あなたは杵島社長の奥様ではありませんか?」
私は突然そう言われ、驚くと同時に、自分のことをわかってくれる人物が現れたことに喜んだ。
しかし同時に、どうしてこの秘書の方は、私が宗司の妻だとわかったのか不思議にも思った。 * * *「やはりそうでしたか」
私が宗司の妻であると伝えると、秘書の男性は笑顔になった。
「どうして奥様のことを存じ上げているのかというと、社長はご自分のデスクに奥様の写真を飾られていて、私はその写真を拝見したことがあったからです。
さらに社長は奥様の写真のことに触れられると、写真を見せながら奥様自慢をされるんですよ。ですので奥様のことはよく存じております。何やら料理がお得意で、オーブン料理がとても美味しいらしいですね」それを聞いて私は喜んだ。
宗司は私の写真をデスクに飾り、仕事をしてくれていたのだ。 仕事が忙しく、家にもなかなか帰れず、偽装結婚ということもあって、会社では私の事など気にもかけてくれていないと思っていたが、宗司は私のことをいつも身近に留めておいてくれていたのだ。 奥様自慢は少し恥ずかしかったが、私は身体の芯に小さな明かりが灯ったように温かみを感じた。 そして急速に自信が湧いてきた。 話し合えば大丈夫。昨晩は離婚届を突き付けられて動揺したけど、今ならちゃんと宗司と話し合える。 そしてそうすれば宗司も離婚届のことは何かの間違いだったと言ってくれる。 * * *秘書の男性は、受付の女性に内線で社長を呼ぶよう指示をしてくれた。
私は、ほっと胸を撫で下ろした。 危うく不審者と思われ、取り合ってもらえない所だったが、容疑は晴れ、これで宗司にも会うことができそうだ。しかし、内線で宗司を呼び出してくれていた受付の女性は、しばらくして眉を寄せると、申し訳なさそうに私に結果を伝えてきた。
「奥様、申し訳ありません。社長は今、席を外しておりまして……。どうやら昼食に出られているようなんです」
それを聞いて私は時計を確認する。
確かに今はちょうど昼休みの時間だった。すると秘書の男性が「きっと社長はすぐに戻られますよ。お掛けになってお待ちになってはいかがですか?」と私に来客用のソファを勧めてくれた。
私は「そうさせてもらいます」と言って、ソファに腰掛けた。程なくして私は温かいお茶を出してもらったが、そのお茶を一口いただいた時、私は先ほど、受付の女性二人が話していた噂話のことが気になった。
総務に新しく入った女性が社長の奥さんではないかと噂されている件だ。
私はあることをすぐに思い出す。
それは宗司が「彩寧が戻った」と言った言葉だ。 これが「最近、総務に入った女性」と合わさり、私はすぐに彩寧が宗司の妻だと勘違いされていることを推察した。私は言い知れぬ不安と胸騒ぎ、そして不快感を覚え、心が千々に引き裂かれた。
まさかよりにもよって彩寧が宗司の妻と勘違いされるなんて……。
私は胃がキュッと固くなり、吐き気にも似た悪寒が込み上げる不快感に襲われた。
そんな嫌な気持ちを和らげようと、私は温かいお茶をもう一口いただく。 温かいお茶が喉を通ることで、私はほっとした気持ちになり、どうにか落ち着きを取り戻すことができた。するとその時───。
私は宗司が帰ってくる姿を見つけた。
私は喜びでパッと笑顔になる。 しかし、次の瞬間、異変に気付いて表情が急速に強張った。宗司は一人ではなかった。
宗司は女性と一緒だった。そしてその女性は宗司の腕に抱きついていて、二人は談笑しながら会社に戻って来ていた。
その女性は彩寧だった。
私は自分の足元の床が崩れたかのような落下感を覚えた。
彩寧は宗司の妻だと会社で噂されている。 その事と相まって私は激しい眩暈に襲われた。そして楽しそうに談笑しながら歩く二人の姿を、私はただ黙って見ている事しかできなかった。
宗司は私に気付かず、そのまま彩寧と二人でエレベーターに乗り込んでいった。
* * *その後、私はどこをどう歩いて自宅に帰ったのか……。
それさえも覚えていない程、私はショックを受けていた。 そして自宅に戻ると、昨日、宗司に突き付けられた離婚届を取り出し、妻の欄に自分の名前をサインすると、そのまま身一つで家を飛び出した。------ 【登場人物】 ------ ▼杵島 充希(きじま みつき)/旧姓:大和田 充希 宗司と三年という期間限定の偽装結婚をするが双子を妊娠。 これを機に、偽装結婚を解消し、本当の夫婦になることを宗司に提案しようとするが、妊娠が判明したその日に、宗司から離婚届を突きつけられる。 ▼杵島 宗司(きじま そうじ) 充希の夫。充希とは幼馴染で、同じ中高一貫校に通った同級生。 充希が妊娠したことを知らずに離婚届を突きつける。 ▼藤堂 幸恵(とうどう さちえ) 充希の担当産婦人科医で親友。 充希、宗司と同じ中高一貫校の同級生で剣道部の部長。 ▼篠原 彩寧(しのはら あやね)/大和田 彩寧 充希の異母姉妹の妹。 中高一貫校の先輩である宗司が好きで、執着している。 ▼大和田 毅(おおわだ つよし) 充希の父。 大和田グループの社長。 ▼篠原 真紗代(しのはら まさよ)/大和田 真紗代 彩寧の母。大和田 毅の元妻。 自らの浮気が原因で大和田家を去る。 ▼忽那 碧(くつな みどり) 充希の産みの母。充希の父親の大和田 毅とは相思相愛。
「お、おお? おおおおお……」 宗司さんが双子の赤ちゃんを抱いて、感動に言葉を失っている。 無事、出産を終え、ぐったりとしていた私は横目でその光景を眺めた。 宗司さんはとても嬉しそう。よかった。でも宗司さんは赤ちゃんの抱き方に慣れていないみたいでぎこちない様子。とても危なっかしい。宗司さん、どうか赤ちゃんを落とさないでね。「充希、ありがとう。本当にお疲れ様。俺たちの子どもは女の子と男の子の双子だ。二卵性の双生児だったんだ」 宗司さんはそのことを何度も口にした。 それだけ喜びが溢れてしまっているんだと思った。「まさか俺が離婚届を突きつけた日が、充希がこの子たちの妊娠に気づいた日だったとは知らなかった。なんて日に俺は離婚届を突きつけていたんだ。本当にすまなかった。 でもこの二人の鼓動に気づかされた。俺は充希が好きだ。子どもの頃、初めてあったその時に───あれは大物政治家の政治資金パーティーだったが───その会場で、とても凛とした姿で、堂々と大人たちに挨拶をして回る充希の姿に俺は目を奪われていた。なんて大人びた女の子なんだ、と。充希と俺が同い年だと知って本当に驚かされたよ」「私も、その時のことは本当によく覚えている。あれは父に言われ、そうするよう繰り返すだけの、ただの「行為」でしかなかったけど、周囲の大人たちが私を褒めてくれるので、嬉しくてそうしていたの。でもそれはただのロボットで、自分じゃない。そう気づかせてくれたのは宗司さんだったのよ。あの瞬間に私は籠の扉を開けられ、外に飛び立った小鳥のように解放されたの」 宗司さんは双子の赤ちゃんを私にも抱かせてくれる。 そして双子を抱く私を、宗司さんは赤ちゃんも含めて抱き締めてくれた。 ───赤ちゃんの鼓動。 ───そして宗司さんの鼓動も私に伝わる。 ───それはもちろん私の鼓動も赤ちゃんに、そして宗司さんに伝わることを意味している。 赤ちゃんたちの二つの鼓動。 さらに私と宗司さんの二つの鼓動。 二つの二つの鼓動に私は気づかされる。 ───とても幸せだ。 言葉にすると、とてもシンプルだけど、今までわかったつもりでいた「幸せ」という言葉とは、今はまったく意味が違ったものになったことに私は気づかされた。「これから幸せな家庭を築こう、充希。俺たち二人で、そして子ど
───数か月後。 私はついにその時───臨月を迎え、幸恵のレディースクリニックに入院をしていた。 ───それは正午を少し回った頃だった。 レディースクリニックの院内が俄かに騒がしくなり始める。 産婦人科医のお医者様や看護師の皆さんが手際よく出産の準備を開始した。 そして分娩室の明かりが灯される。 ───いよいよだ。「さ、幸恵部長。俺はどうしたらいい? 夫が妻の出産に立ち合うとかどうするんだ?」 宗司さんが珍しく幸恵の後をついて回る。 いつもなら、どちらかというと幸恵が来たら逃げるように距離を保っていた宗司さんが幸恵に自ら近づくなんて、なんだか不思議な光景。 私はその景色が珍しくて、ただただ眺め続けた。「宗司! うるさい! あんたは外! 待合室でコーヒーでも飲んで座っていて!」 幸恵が宗司さんを閉め出す。 宗司さんが可哀想。ごめんね、宗司さん。すぐに終わるから少しだけ外で待っていてね。「充希、それじゃあ俺は外にいるから。扉のすぐ外にいるから。何かあったらすぐに俺を呼ぶんだ。呼ばれたところでどうすればいいのかわからないが、とにかく俺を呼ぶんだ」 宗司さんはそう言って私の手を握る。 私は宗司さんの手を握り返し「大丈夫よ、宗司さん。心配しないで。出産なんて多くの人が経験している人類の営みよ。当たり前のことなんだから大丈夫。それに幸恵が私のお産を担当してくれるんだからなんの心配もいらないわ」と、微笑んで見せようとしたが───。「───ッ! ───う、ぐッ! ───く、うッ……!」 私は猛烈なお腹の痛みで、そんなことをする余裕は全くなかった。 なんなのこの痛みは……。 痛い。本当に痛い。 これが陣痛というものだということはわかっているけど、この痛みは本当にこれであっているの? 私の場合、双子の出産だから、通常の出産と違って痛みが二倍になっているのかしら? 幸恵は一人の出産も双子の出産も痛みは一緒よと言っていたけど、世の中全てのお母さんがこの痛みを経験しているなんて信じられない。 ベビーカーに子どもを乗せて、街を歩くお母さんの姿をよく見かけるけど、皆さんこの痛みを経験し、乗り越えられているというの? 本当に? こんな痛みを経験しているのに、よく何事もなかったように普通にしていられ
宗司先輩が退院する。 いてもたってもいられず、私は病院にやって来たが、充希と幸恵部長がいるので宗司先輩に近づくことはできない。 でも、それでもいい。 宗司先輩が退院する元気な姿を見られただけで、私は満足だ。 ───私もあの輪の中にいたい……。 ───私も一緒に宗司先輩の退院を祝福したい……。 そんな気持ちに駆られる自分を少し感じたが、私は頭を振ってそんな考えを振り払った。 ───充希と一緒にそんなことはできない。 ───充希と一緒にそんなことはしない。 ───充希にだけは……。充希にだけは……。 私は無意識に手を強く握った。 爪が喰い込み、自分で自分の手を傷つけてしまいそうだった。「それ以上は強く握らない方がいい。手に傷がつくし、爪も痛む」 急に声をかけられ、私は身体を強張らせるほどに驚いた。 振り向くと一人の医師が私のすぐ後ろに立っていた。 胸のネームプレートには種村 崚佑と書かれている。 ───充希と一緒にいた男性医師だ! 私はこの医師のことをすぐに思い出した。「君のことは知っている。よくお見舞いに来ていた」「な、なんですか、あなたは。急に声をかけないでください」「僕は種村 崚佑。この病院の産婦人科医」「そ、そんなことを聞いているんじゃないんです。見ず知らずの人なのに、急に話しかけないでくださいと言っているんです」 なんなのこの男は。 初対面の人に対する遠慮とか、距離感っていう気遣いが欠如しているの?「君は道端に捨てられ、雨に濡れる子猫みたい。必死で叫び、鳴き声をあげているけど誰も助けてくれない。その事に怒りをあらわにしているけど、それは自分を守るため。そして自分を守るためにそうしなければならない自分が嫌で、ますます怒っている。 君が欲しいのは、とても些細な幸せ。誰か一人でも自分に寄り添ってくれる人が欲しいだけ。でもそんな些細な望みが叶えられない自分を悔しく思っている。 それに……。 ……君が自分に寄り添って欲しいと思っている人を、君は一番に憎んでいる。 ───その相手は恋人か両親、または兄弟姉妹……。 誰かはわからないけど、かなり拗れている。そんな拗らせ方じゃ、望むものはますます手に入らな
そして、いよいよ宗司さんが退院をする日を迎えた。「忘れ物はない? 退院の手続きもちゃんと済んでいるわよね?」 母・碧は心配そうだった。「大丈夫。忘れ物はないよ。退院の手続きも私がちゃんと済ませたし、お会計もしたから、あとは家に帰るだけだよ」 空っぽになった病室を見て、母・碧は少し寂しそうだった。「充希は宗司さんと二人の家に帰るのよね? 私の家に置いてある荷物はどうする? あとで取りに来る?」「もともと何も持たずに家を飛び出して、そのままお母さんの家に入れてもらったから、荷物なんて歯ブラシとちょっとした着替えくらいだし……。でも後で片付けも兼ねて取りに行くから、少しの間だけ置いておいて」「また、もしもの時の為に、そのまま置いておいてもいいのよ?」 母がそう提案してくれたが、私はしっかりと首を振った。「もう二度と、そういった「もしもの時」はないようにします。私は絶対に宗司さんの手を離しません。宗司さんのもとを離れません」 私がそう述べると、母は「確かにそれもそうね」と納得してくれた。「お母さん、お世話になりました」 宗司さんが母・碧に頭を下げる。「そして、すみませんでした。自分が至らぬばかりに充希を悲しませてしまいました。もう二度とこのようなことはしません。必ず充希を守り、幸せにしてみせます」 母は宗司さんの手を取ると、宗司さんに頭をあげさせた。「宗司くん、自分を責めないで。夫婦なんだから、そりゃ、いろいろあるわよ。私は宗司くんと充希についてなんの心配もしていません。二人は子どもの頃から本当にお似合いのカップルだったんだから」 子どもの頃の話を持ち出されて、私と宗司さんは少し気恥ずかしく思った。「宗司くん、こちらこそ充希を宜しくお願いします。私が言うのもなんだけど、充希は本当に立派な娘です。自慢の娘です。私の大切な娘です。だからどうかどうか幸せにしてやってください」 そして母は私の手を取ると、宗司さんの手に重ねた。「充希も、しっかり宗司くんを助けてあげてね。支えになってあげてね」「うん。任せて、お母さん。もう二度と心配をかけるようなことはしないよ」「それから産まれてくる子どもたちのこともしっかり頑張るのよ」 最後に母がそう言うと、にわかに宗司さんが慌てだした。
「充希、寒くない? ブランケットをもう一枚使う?」 晩秋の候、私と幸恵はキャンプ場に来ていた。 幸恵は近頃、アウトドアに傾倒し、しばしば日帰りキャンプに出かけていた。 いつの間にかキャンプグッズもたくさん買い揃えられ、とても充実したアウトドアを楽しむことができるようになっていた。 私は、おしゃれで便利なキャンプ道具を手に取り、幸恵が傾倒して、こうしたキャンプ用品を買い集める気持ちに共感していた。「ありがとう、幸恵。大丈夫だよ。このキャンプ用のブランケットがとても温かいから。このブランケットはすごいわね。軽くて薄いのに、風も通さず、肌触りも柔らかで、キャンプだけじゃなく、オフィスでも使いたいと思えるくらいだわ」 私がそう絶賛すると、幸恵は自分のことを褒められているように喜んだ。「そうなの、そのブランケットは断熱アルミシートが入っているから保温性が高いの。それに水も弾くから急な雨に降られても、そのブランケットを被れば雨を凌げるんだから」 嬉しそうに説明をしつつ、幸恵は慣れた手つきで焚火の支度を進める。「さあ、それじゃあ、充希。「例の物」をお願いね」 すっかり焚火の準備を整えた幸恵は、後はいよいよ点火をするだけとなった。 その段になって、幸恵は私に「例の物」を用意するよう促す。 それは、私がサインをした離婚届だった。 私は封筒から離婚届を取り出すと、改めて自分のサインを見返した。 当初は、もう二度と見たくないと思ったサインだったが、今は私にとって、このサインは重要な意味を持つようになっていた。「このサインは私の弱さの象徴だわ。このサインを見ていると、過去の自分を見ているように思える。それは誇れる自分じゃないけど、そうした自分があったからこそ───そうした自分が嫌だからこそ、自分を成長させようという気持ちが湧いてくるわ」「それはちょっとわかるわ。誰だって恥ずかしい思いや悔しい思い、他にも失敗とか苦い経験を持っている。問題は、そうした後悔に押しつぶされない事ね。逃げずに向き合い、乗り越えることができれば、また一つ、自分を成長させることができるもんね」 私と幸恵は、少しの間だけ二人で余韻に浸るように私がサインした離婚届を眺めた。「さあ、それじゃあ、そんな昔の弱い充希とはお別れをしましょう」
幸恵部長に突き飛ばされた私は、その場に倒れ込む。 ───相変わらずの馬鹿力で本当に忌々しい。加減というものを知らないのかしら、この女は。 私は憎らしく幸恵部長を睨みつける。 充希は離婚届にサインをしたのよ。自らの意志で宗司先輩の妻の座を放棄したのよ。それなのに何故───何故、みんな充希を庇い、充希を助けるの? ───幸恵部長もそう。 ───宗司先輩の秘書もそう。 ───受付の女もそう。 皆、どうして充希の味方をするの? 正論を述べ、正しいことをしているのは私よ。私こそが正義なのよ。 それなのに何故───。 充希と幸恵部長は去り、警備員も持ち場に戻った。 私は一人、社長室に取り残される。 ───誰も私を気にかけてくれない。 ───誰も私に手を差し伸べてくれない。 突き飛ばされ、倒れた私に見向きもしないで、皆、私の前からいなくなる。 ───どうして……。 でも自己憐憫に浸ってなんかいられない。沈んだ気持ちでいたって何も解決しない。 これまでもそうだった。 私は誰からも愛されず、誰の助けも得られなかった。 だから自分で解決するしかない。自分一人の力で生きていくしかない。 そして周囲を───私を無視し、私の前を素通りしていった者達を見返してやるんだ。 目に涙を浮かべていた私は、あやうく零れそうになった涙を拭い、立ち上がる。 泣いたりなんかしない。私が泣いたって、誰も助けたりしてくれない。誰も優しい言葉をかけてくれたりなんかしない。誰も私の涙を拭ってなんてくれない。私は自分で自分を愛し、自分一人で生きていくしかないのだから。 自らを取り戻した私は社長室を出る。 するとすぐに声をかけられた。「どうした? 何かあったのか?」 私は少し驚きつつ、声の相手を振り返る。「あ、あなたは───」 私は声の主が誰であるかがわかり、さらに驚いた。「あなたは、杵島 巧三会長───!」 それは宗司先輩のお父様で、杵島グループの杵島 巧三会長だった。 因みに今は、入院中の宗司先輩の代わりに杵島グループの社長として会社の運営を担っている。 とはいっても、宗司先輩が入院する前───宗司先輩が社長