翌日、私はレディースクリニックを訪れ、診察を受けていた。
離婚と彩寧の登場という二つの衝撃的な出来事で一睡もできず、心なしかお腹に痛みがあるように思えたからだ。
私は親友で、担当医でもある幸恵に連絡をした。
幸恵は、今日はクリニックの勤務が休みだったが、すぐに駆けつけてくれた。 そして私のお腹にエコーを当てて、子供たちの様子を確認してくれた。「大丈夫よ。二人ともなんともないわ。でもね、妊娠初期の妊婦にストレスと不眠は大敵よ。充希はもともと妊娠が難しい体質だから、もし流産なんてしたら大変よ。もう二度と子供ができなくなる可能性だってあるんだから、くれぐれも注意してね」
検査を終えた私と幸恵はクリニックの近くにあるカフェテリアに入った。
「それで、その後、宗司とは何も話をしてないのね?」
幸恵の追及に私はコクンと頷く。
「それっきり宗司さんは部屋に籠ってしまって……。今朝も早くから会社に行ってしまったわ。……私とは一言も喋らず……」
私がギュッとドリンクのカップを握って悲しむと、幸恵は「おのれ、宗司め~っ!」と怒りを露わにした。
そして「充希を悲しませるなんて絶対に許せない! 今すぐその性根を叩き直してやる!」と息巻いた。
幸恵は、宗司に対して態度が厳しいが、それには理由があった。
実は私と幸恵、そして宗司の三人は同じ中高一貫校の同級生だったのだ。
しかも幸恵と宗司は同じ剣道部で、幸恵が部長、そして宗司が副部長で、二人は旧知の間柄だったのだ。
私は今にも飛び出しそうな幸恵の手をとって、まずは落ち着いてもらおうとなだめた。
幸恵は私に手を握られると、深いため息をつきつつ、私の手を握り返してくれた。
「そうね。私の方が興奮しちゃ駄目ね。一旦、落ち着くわ」
私は幸恵が落ち着いてくれて安心した。
「それで? どうするの?」
落ち着いた幸恵は私を心配して尋ねてくれた。
私は色々悩んだが、やはり宗司と話をしないことにはどうにもならないと考え、その旨を幸恵に伝えた。
その考えに、幸恵は賛同してくれた。「そうね。一人で悩んでいたってしょうがないものね。
わかったわ。幸いお腹の子供たちは大丈夫だから、途中で転んだりしないよう気を付けるなら、宗司の会社に行くことを許可してあげるわ」幸恵は私の担当医っぽく、意図的に偉そうな言い方で冗談めかし、私を後押ししてくれた。
幸恵は「私も一緒に行こうか?」と提案してくれたが、私は断った。
これは私たち夫婦の問題。 自分たちで解決しないといけない。 その為、私は一人で夫の会社に向かった。 * * *電車を乗り継ぎ、私は宗司の会社に初めてやって来た。
これまで、宗司の会社を訪れる機会はなく、今回が最初の訪問だった。見上げる程の高層ビルは、私の実家が経営する大和田グループのビルに勝るとも劣らない立派な社屋だった。
私は宗司が担う責務の大きさを改めて実感した。 このビルにいる社員や業務など、ヒト・モノ・カネの全てに宗司は責任を持つのだ。 その重責の重さは計り知れない。 そう考えると、杵島グループの社屋の大きさに、私は怖ささえ覚えたが、意を決して入り口の自動ドアをくぐった。「確か社長室はビルの最上階だと宗司は言っていたはず……」
私は微かな記憶を頼りにエレベーターホールに向かう。
そして各階案内を見てみると、確かに最上階に社長室という記載があった。ここに宗司がいる。
私は迷子が親を見つけたような安堵感を覚え、エレベーターの呼び出しボタンを押そうと手を伸ばしたが、そうした矢先、私は受付の女性に呼び止められた。
「あの、お客様。失礼ですが、当ビルは社員でない方のご入館はお断りをしておりまして……」
「弊社社員とお約束でしょうか? もしそうでしたらこちらでお名前とご用件をお願い致します」私は受付に促された。
「私は杵島 充希です。約束はしていませんが、社長に会いたくて……。通していただいても宜しいですか?」
私がそう申し出ると、受付にいた二人の女性は怪訝そうに顔を見合わせた。
「杵島社長にお会いになりたいのですか?」
「失礼ですが、社長はご多忙で、お会いになるにはご予約が必要なのですが……」私は明らかに懐疑的な目で見られ、慌てて弁明をした。
「私は杵島 宗司の妻です。夫に話があって来たんです。直接、会って話がしたいのです」
私はそう訴えたが、受付の女性二人はますます困り顔になった。
「社長の奥様ですか……。あの、失礼ですが、もし宜しければ身分証明書か何かを見せていただけないでしょうか?」
私は自分が不審者だと疑われている事に気づき、慌てて身分証を証明できるものがないかバッグの中を確認した。
「社長の奥様でしたらスマホで直接社長にご連絡をされた方が良いかもしれませんが……」
そう言われたが、実は私は宗司の電話番号も、SNSなどの連絡ツールも何も知らされていなかった。
私は過去に、宗司に「もしもの時の為に、電話番号くらいは教えて欲しい」と申し出たが、偽装結婚なのでそんなものは必要ないと断られていたのだ。私は、宗司に直接連絡できない理由を「私たちは夫婦ですが偽装結婚なので連絡先を交換していないんです」とは言えず、苦し紛れに「スマホをなくしてしまって……」と嘘をついた。
受付の女性は一応は納得してくれたが、私のことを不審に思う気持ちは払拭されなかったようだった。
「ねえ、社長の奥様って、確か……」
「ええ。最近、総務に新しく入った女性が、実は社長婦人じゃないかって噂されているわよね……」 「そうよね。私も社長とその女性が一緒にいる姿を見たけど、とっても仲が良さそうだったわよ」 「それじゃあ、この女性は一体……? まさか社長夫人を語る偽者……?」受付の女性二人は顔を寄せ合って小声でヒソヒソと話したが、折悪しく、私は二人の会話の内容が聞こえてしまった。
私は今、自分がかなり不審に思われていることを痛感した。
そして、それもさることながら、自分以外の誰かが宗司の妻だと噂されていることに驚いた。どうしてそんなことが……!?
私は動揺し、ますます探し物が見つからなくなってしまった。
気持ちが焦り、乱暴にバッグの中を掻き回したが、その落ち着きのない様子が、ますます受付の女性二人の懐疑心を刺激してしまった。私は寝不足というコンディションもあって、気が動転しそうになったが、その時、「あの……。どうかしましたか?」と、声を掛けられた。
私が振り向くと、そこには一人の男性が立っていた。
「私は杵島社長の秘書の者です。失礼ですが、あなたは杵島社長の奥様ではありませんか?」
私は突然そう言われ、驚くと同時に、自分のことをわかってくれる人物が現れたことに喜んだ。
しかし同時に、どうしてこの秘書の方は、私が宗司の妻だとわかったのか不思議にも思った。 * * *「やはりそうでしたか」
私が宗司の妻であると伝えると、秘書の男性は笑顔になった。
「どうして奥様のことを存じ上げているのかというと、社長はご自分のデスクに奥様の写真を飾られていて、私はその写真を拝見したことがあったからです。
さらに社長は奥様の写真のことに触れられると、写真を見せながら奥様自慢をされるんですよ。ですので奥様のことはよく存じております。何やら料理がお得意で、オーブン料理がとても美味しいらしいですね」それを聞いて私は喜んだ。
宗司は私の写真をデスクに飾り、仕事をしてくれていたのだ。 仕事が忙しく、家にもなかなか帰れず、偽装結婚ということもあって、会社では私の事など気にもかけてくれていないと思っていたが、宗司は私のことをいつも身近に留めておいてくれていたのだ。 奥様自慢は少し恥ずかしかったが、私は身体の芯に小さな明かりが灯ったように温かみを感じた。 そして急速に自信が湧いてきた。 話し合えば大丈夫。昨晩は離婚届を突き付けられて動揺したけど、今ならちゃんと宗司と話し合える。 そしてそうすれば宗司も離婚届のことは何かの間違いだったと言ってくれる。 * * *秘書の男性は、受付の女性に内線で社長を呼ぶよう指示をしてくれた。
私は、ほっと胸を撫で下ろした。 危うく不審者と思われ、取り合ってもらえない所だったが、容疑は晴れ、これで宗司にも会うことができそうだ。しかし、内線で宗司を呼び出してくれていた受付の女性は、しばらくして眉を寄せると、申し訳なさそうに私に結果を伝えてきた。
「奥様、申し訳ありません。社長は今、席を外しておりまして……。どうやら昼食に出られているようなんです」
それを聞いて私は時計を確認する。
確かに今はちょうど昼休みの時間だった。すると秘書の男性が「きっと社長はすぐに戻られますよ。お掛けになってお待ちになってはいかがですか?」と私に来客用のソファを勧めてくれた。
私は「そうさせてもらいます」と言って、ソファに腰掛けた。程なくして私は温かいお茶を出してもらったが、そのお茶を一口いただいた時、私は先ほど、受付の女性二人が話していた噂話のことが気になった。
総務に新しく入った女性が社長の奥さんではないかと噂されている件だ。
私はあることをすぐに思い出す。
それは宗司が「彩寧が戻った」と言った言葉だ。 これが「最近、総務に入った女性」と合わさり、私はすぐに彩寧が宗司の妻だと勘違いされていることを推察した。私は言い知れぬ不安と胸騒ぎ、そして不快感を覚え、心が千々に引き裂かれた。
まさかよりにもよって彩寧が宗司の妻と勘違いされるなんて……。
私は胃がキュッと固くなり、吐き気にも似た悪寒が込み上げる不快感に襲われた。
そんな嫌な気持ちを和らげようと、私は温かいお茶をもう一口いただく。 温かいお茶が喉を通ることで、私はほっとした気持ちになり、どうにか落ち着きを取り戻すことができた。するとその時───。
私は宗司が帰ってくる姿を見つけた。
私は喜びでパッと笑顔になる。 しかし、次の瞬間、異変に気付いて表情が急速に強張った。宗司は一人ではなかった。
宗司は女性と一緒だった。そしてその女性は宗司の腕に抱きついていて、二人は談笑しながら会社に戻って来ていた。
その女性は彩寧だった。
私は自分の足元の床が崩れたかのような落下感を覚えた。
彩寧は宗司の妻だと会社で噂されている。 その事と相まって私は激しい眩暈に襲われた。そして楽しそうに談笑しながら歩く二人の姿を、私はただ黙って見ている事しかできなかった。
宗司は私に気付かず、そのまま彩寧と二人でエレベーターに乗り込んでいった。
* * *その後、私はどこをどう歩いて自宅に帰ったのか……。
それさえも覚えていない程、私はショックを受けていた。 そして自宅に戻ると、昨日、宗司に突き付けられた離婚届を取り出し、妻の欄に自分の名前をサインすると、そのまま身一つで家を飛び出した。------ 【登場人物】 ------ ▼杵島 充希(きじま みつき)/旧姓:大和田 充希 宗司と三年という期間限定の偽装結婚をするが双子を妊娠。 これを機に、偽装結婚を解消し、本当の夫婦になることを宗司に提案しようとするが、妊娠が判明したその日に、宗司から離婚届を突きつけられる。 ▼杵島 宗司(きじま そうじ) 充希の夫。充希とは幼馴染で、同じ中高一貫校に通った同級生。 充希が妊娠したことを知らずに離婚届を突きつける。 ▼藤堂 幸恵(とうどう さちえ) 充希の担当産婦人科医で親友。 充希、宗司と同じ中高一貫校の同級生で剣道部の部長。 ▼篠原 彩寧(しのはら あやね)/大和田 彩寧 充希の異母姉妹の妹。 中高一貫校の先輩である宗司が好きで、執着している。 ▼大和田 毅(おおわだ つよし) 充希の父。 大和田グループの社長。 ▼篠原 真紗代(しのはら まさよ)/大和田 真紗代 彩寧の母。大和田 毅の元妻。 自らの浮気が原因で大和田家を去る。 ▼忽那 碧(くつな みどり) 充希の産みの母。充希の父親の大和田 毅とは相思相愛。
「充希はどこに行ってしまったのだろう……」 ラウンジのバーで、そう独り言を呟いた俺は、ウィスキーのグラスを傾ける。 ロックアイスが転がり、カランと音をたてた。 離婚届を充希に突きつけた翌日、家に帰ると充希の姿はなかった。 俺が帰宅したのは夜も遅い時間だった。 こんな時間に充希が家にいないなんて……。 俺は心配になって家を飛び出し、充希を探しに辺りを走り回りたくなる衝動に駆られたが、テーブルに残された離婚届を見て事態を理解した。 離婚届には充希のサインがあった。 充希は離婚届にサインをし、家から───俺のもとから去ったのだ。 やはり充希は俺に愛想を尽かしていたのだ。 俺の方から、この結婚は偽装結婚で、三年で離婚する期間限定の白い結婚だと提案したのに、その誓いを守らず、酒に酔った勢いで手を出してしまう様な男と安心して同じ家に住めるわけがない。 充希が出ていくのは当然だ。「───だが、どこに行ってしまったのだ、充希……」 俺は充希が大和田家の実家に戻ったのかと思ったが、大和田グループ社長で充希の父親でもある大和田 毅氏は何も言ってこない。 もし充希が実家に戻れば、何かしらの連絡のひとつもあるはずだ。 他に充希が行くあてがあるとすれば藤堂 幸恵の所だろうか? 二人は中高一貫校時代から仲が良く、お互いの家で頻繁に「お泊り会」をする仲だったのでその可能性はある。 幸恵に連絡をしてみようか……? そう思ったが……。 ───ダメだ。あの鬼部長の藤堂 幸恵には連絡できない。 もし俺たちの結婚が偽装結婚だということがバレたら何を言われるか───何をされるかわかったものではない。 未だに中高一貫校時代の剣道部の部長のままで、俺たちに竹刀を振り上げて尻を叩きにくるような人だ。 この年齢になって、そんな折檻は御免被りたい。 俺がそうしたことを悩んでいると、一人の女性客がバーに駆け込んできた。 そしてその女性客は俺の姿を見つけると、一目散に駆け寄ってきた。「宗司先輩! 遅くなってすみません!」 それは彩寧だった。 今日、俺は彩寧と、このバーで会う約束を
崚佑さんとあまりお話をしない方がいいとはどういうことだろう? 私はドキリとして固まる。 一瞬、業務中に無駄話をしている態度が周囲から不快に思われてしまっているのかと危ぶんだが、その点は大丈夫だった。 というのも事務現場は意外と和やかで、皆、業務の手を動かしつつも、お喋りや息抜きを盛んに行っていたのだ。 そうであるにも関わらず、同僚が忠告をするのは何故だろう? ひょっとして幸恵も言っていた「崚佑は愛が重いタイプ」という事と関係があるのだろうか? 私は俄かに同僚の真意が気になり、意を決して尋ねてみた。「崚佑さんとあまりお話をしない方がよいというのはどうしてなのでしょうか?」 私は相手が自分の忠告を聞き返されたことによって、不快に思うのではないかと危ぶんだが、意外にも反応は全くの正反対で、むしろ話に喰いついてくれたと嬉しそうな様子だった。 どうやらこの件について、彼女は詳しく話をしたいようだ。 そう察した私は「ぜひ教えてください」と秘密をおねだりするように、もう一言添えてみた。効果は覿面だった。彼女は嬉しそうに理由を教えてくれた。「それはですね、崚佑さんが女性の看護師や女医から人気だからです。病院勤務は外部との関わりが少ないので、どうしても院内で「相手」を見つけないといけないんです。そうした思惑が渦巻く院内で、私たち事務方が男性医師と親しくしていると、目をつけられちゃうからですよ」 そう話す彼女は本当に楽しそうだった。 私は相手がかなりのゴシップ好きだと理解した。「そうやって目を付けられて、辞めていった事務方は多いんです。充希さんも気をつけてくださいね。特に充希さんは誰とでも親し気で、相手に対して親切だから男性に好かれていそうという嫉妬をより集めそうに見えるので」 饒舌になった彼女は、私の評価についても口走ってしまった。 それは悪意のある嫌味ではなく、純粋に私が「モテそう」という誉め言葉のつもりだったに違いない。 しかし、その一言は、私の胸に小さな果物ナイフを刺したかのような鋭い痛みを与えた。 私は「男性に好かれていそう」と周囲から思われているとのことだった。 驚くべきことに、私はその評価をとても不名誉なことだと
崚佑さんは、それから一日一回、日によっては午前と午後の二回も私のもとにやってくるようになった。 私たちは、私のお腹の経過についてや、何気ない話を短時間だがやり取りするようになった。「昨日、納豆は食べた?」「はい。崚佑さんに言われた通り、ちゃんと夕飯にいただきました」「納豆は葉酸も多く含まれているから妊婦さんにおすすめ。血液サラサラ効果もあって美容にもいい。朝食メニューのイメージがあるけど、納豆の効果は長く続くから夜に食べた方が寝ている間も効果が持続して効果的」 そう解説しつつ、崚佑さんはメモ帳を取り出すと、そこに何かを書き込んだ。 崚佑さんは几帳面で、こまめにメモを取るが、私はそのメモの表紙に「大和田 充希」と私の名前が書かれていることが気になった。 わざわざ、私専用のメモを用意するなんて……。 少し嬉しい反面、過分に気にかけてもらっていることに対する「過保護感」もあって、若干だが居心地が悪かった。「碧さんも納豆を食べた?」「あ、はい。母が家に居るときは、夕食を一緒に食べると約束しているので、同じメニューをいただいています」「碧さんは忙しそうだから血液はサラサラの方がいい。夕飯に納豆を食べたなら安心」 崚佑さんは、またメモ帳にペンを走らせる。 そうしながら「……碧さんって家にいるときは何してるの?」とさり気なく私に尋ねた。 私は家にいる時の母の様子を思い返す。「タブレットで動画を観たり、小説を読んでいる事が多いです」「そうなんだ」「でも、すぐに寝ちゃいますけど」 しっかり者のイメージの母のだらしない部分を暴露して、私と崚佑さんは笑い合った。 私は崚佑さんと出会った当初、崚佑さんが頻繁に私のもとに来る事に戸惑いがあった。 まだ慣れていないというか、詳しく知らない相手なので、少なからず警戒心があったのだ。 幸恵が崚佑さんのことを「愛が重いタイプ」と言っていたので、気に入られると付きまとわられるのではないかという心配もあった。 だが今はこうして笑顔になれることもあり、崚佑さんの訪問は業務のちょっとした息抜きにもなって重宝していた。 何より崚佑さんは本当に気遣いができる人で、私のお腹の様子、日々の生活、精神状態の微妙な変化に敏感で、色々
私は少しそわそわする。 先ほど搬送された患者さんが気になったのだ。 ───二十代の女性。 ───双子を妊娠。 ───切迫流産。 私と共通点が多く、他人事に思えない。 母が戻ったら、その患者さんが無事かどうか聞きたいと強く私は思った。 ギュッと目をつぶって、その患者さんの無事を祈る私の前に一人の産婦人科医が立った。 私は驚いて相手を見返す。 すると私の眼前にクリップボードにまとめられた書類一式が出された。「この事務処理を最優先でやって。緊急案件だから」 言葉短くそう告げたのは、種村 崚佑産婦人科医だった。 私は初対面だったが、胸のネームプレートで、この人が幸恵の言っていた崚佑さんだと認識する。 初めて崚佑さんをみた印象は「若手アイドルみたいに素敵な人」だった。 幸恵も確かに崚佑さんは「すごくイケメン」だと言っていたが、その言葉に誤りはなかった。「キミ、名前は?」「え───?」 急に名前を聞かれて私は思わず「え?」っと声を上げる。 そして咄嗟に「杵島 充希です」と答えようとして、はっとする。 ───……違う! ───私はもう「杵島」じゃない……! それは私に自分自身が離婚したのだということを強く思い知らせるのに十分だったが、今はその事で闇に沈んでしまうわけにはいかなかった。 私は気を取り直し「大和田 充希です」と旧姓を名乗った。「充希さん。これはね、さっき搬送された妊娠している女性の入院に関わる事務処理だから、すごく急いでる。すぐにお願い」 崚佑さんはそう言って改めてクリップボードを私に差し出す。 私は「わかりました」とクリップボードを手に取り、受け取ろうと引いたが───。「───?」 私がクリップボードを受け取ろうとしたが、崚佑さんが手を離してくれず、私はクリップボードを受け取れなかった。「あ、あの? どうかしましたか?」 私は尋ねるが崚佑さんはじっと私の顔を見つめるだけだった。 そのように見られて私はドキリとする。 こんなにも真正面から男性に顔を見られるのは久しぶりだった。「そうか、キミが充希さん。碧さんの娘さんの。なるほどだね。確かに碧さんに似て
「充希、どう? 仕事にはもう慣れた?」 私が事務手続きを行っていると、業務が一段落した母・碧が私の様子を見にやって来た。「うん。大丈夫。周りの皆さんも親切で、丁寧に仕事を教えてくれるから、ちゃんと業務をこなせているよ」「そう。よかった。お腹の調子も問題なさそうだし、少し表情も和らいでいるわよ。やっぱり仕事に就いて良かったわね」 私もその点については完全に同意だった。 母の家に籠っているよりも、こうして外で働いている方が気も紛れる。 そして業務に集中している間は、無駄に悩む事もしなくて済んでいた。「家に居た充希は表情もやつれて辛そうだったから、安心したわ」 母がそう言って安心してくれたので、私も安心する。 母に心配をかけるわけにはいかない。 今回の件は、私の自業自得だ。 自分で同意して宗司さんとの偽装結婚に応じ、三年間という期間限定の白い結婚であるはずなのに、その誓いを破って子供を妊娠し、そして離婚届を突きつけられる───。 場合によっては「あなたは何をしているの!」と怒られたり、非難されても仕方ない状況。 そんな私に何も言わず、全てを受け入れ、部屋に匿い、仕事まで与えてくれた母。 そんな母には、感謝しかない。 その為、母には、これ以上の心配や迷惑はかけられない。 そういう状況を鑑み、私は母に、今の自分の率直な悩みを打ち明けるわけにはいかなかった。 母は私が少し元気になったと安心してくれるけど───。 母は私の表情が少し和らいだと言ってくれるけど───。 本当の私は、ふとした拍子に宗司さんのこと、離婚のこと、お腹にいる二人の赤ちゃんのことを考え、ギュッと胃が縮まり、両肩にズシリと重い布団を被せられたように身体が重くなり、部屋の電気が消えたように暗闇に包まれ、周囲の音がなくなって「キーン」という甲高い耳鳴りがするような、孤独とも不安とも恐怖ともつかない、とても心細い状態に陥ることがあるのだ。 母の家に来た当初は、頻繁にその状況に陥り、何もすることができずにただただ耐えていた。 その時の状態から比べれば、今は確かに回数が減り、苛まれる時間も短くなったが、それでも業務中だろうが休憩中だろうがお構いなしに、不意に私はそうした状況に、しばしば陥っていたのだ。 だが
幸恵に言われた一言は私の心に重くのしかかった。 そうだった。私はもう宗司さんの妻じゃない。 独身だ。 これまでは宗司さんという頼れる存在が傍らにいてくれたけど、今の私にそうした拠り所はなかった。 私は急に、見知らぬ土地で迷子になったような不安感を覚える。 それはまるで、これまで籠で飼われていた小鳥が巣から出され、野生の大空に放たれたような心許無さだった。 それは自由ではあったが、いつ何時、どこから外敵に襲われるか分らない不確実性との戦いでもあった。 私は急に外に出るのが怖くなり、家に籠ってじっとしていたくなる。 でもそういうわけにはいかない。そうして隠れ続けることはできない。 私は自分一人で人生という大海原に小舟で漕ぎ出さなくてはならないのだ。 それはとても勇気がいる行動だったが、私は負けるわけにはいかない。 何故ならこれは私一人の問題ではないから。 私の中に宿る二つの生命。 この大切な赤ちゃんたちの為に、私は強くならなければならない。 しかし、勇気を振り絞ることは気が重く、億劫である───。 ───かと思ったが、意外にも私はメラメラと困難に立ち向かう勇気が、自分の中で燃え上がり始める熱を感じた。 子供がいることが枷になるかと思いきや、そうした負の感情はまったくなかった。 私は自分がこの子たちの存在を、重荷というようには全く感じていない事実に驚く。 むしろこの子たちは重荷どころか私の支えになってくれている。 この子たちがいるから頑張れる。この子たちがいるから勇気が出せる。この子たちがいるから私は立ち向かえる。 なんと尊い存在なのだろう。 私は自分のお腹に手をあて、私の中に居てくれる二人の赤ちゃんに心から「ありがとう」と感謝をした。 * * * 私が母の勤める総合病院で働く話はトントン拍子で進んだ。 面接もそこそこに、「碧さんの娘さんなら安心」「とにかく病院は人手不足で大変」という二点の理由だけで「早速、明日からでも」という勢いで話が決まった。 最初の一ヵ月は様子見ということで、週三回の勤務で「慣らし運転」から始まったが、幸い私は「昔取った杵柄」が今も生きているようで、すんなりと業務の流れに加わることができた。 「さすが碧さんの娘さん」「やっぱり碧さんの娘さんは違い