Mag-log in翌日、私はレディースクリニックを訪れ、診察を受けていた。
離婚と彩寧の登場という二つの衝撃的な出来事で一睡もできず、心なしかお腹に痛みがあるように思えたからだ。
私は親友で、担当医でもある幸恵に連絡をした。
幸恵は、今日はクリニックの勤務が休みだったが、すぐに駆けつけてくれた。 そして私のお腹にエコーを当てて、子供たちの様子を確認してくれた。「大丈夫よ。二人ともなんともないわ。でもね、妊娠初期の妊婦にストレスと不眠は大敵よ。充希はもともと妊娠が難しい体質だから、もし流産なんてしたら大変よ。もう二度と子供ができなくなる可能性だってあるんだから、くれぐれも注意してね」
検査を終えた私と幸恵はクリニックの近くにあるカフェテリアに入った。
「それで、その後、宗司とは何も話をしてないのね?」
幸恵の追及に私はコクンと頷く。
「それっきり宗司さんは部屋に籠ってしまって……。今朝も早くから会社に行ってしまったわ。……私とは一言も喋らず……」
私がギュッとドリンクのカップを握って悲しむと、幸恵は「おのれ、宗司め~っ!」と怒りを露わにした。
そして「充希を悲しませるなんて絶対に許せない! 今すぐその性根を叩き直してやる!」と息巻いた。
幸恵は、宗司に対して態度が厳しいが、それには理由があった。
実は私と幸恵、そして宗司の三人は同じ中高一貫校の同級生だったのだ。
しかも幸恵と宗司は同じ剣道部で、幸恵が部長、そして宗司が副部長で、二人は旧知の間柄だったのだ。
私は今にも飛び出しそうな幸恵の手をとって、まずは落ち着いてもらおうとなだめた。
幸恵は私に手を握られると、深いため息をつきつつ、私の手を握り返してくれた。
「そうね。私の方が興奮しちゃ駄目ね。一旦、落ち着くわ」
私は幸恵が落ち着いてくれて安心した。
「それで? どうするの?」
落ち着いた幸恵は私を心配して尋ねてくれた。
私は色々悩んだが、やはり宗司と話をしないことにはどうにもならないと考え、その旨を幸恵に伝えた。
その考えに、幸恵は賛同してくれた。「そうね。一人で悩んでいたってしょうがないものね。
わかったわ。幸いお腹の子供たちは大丈夫だから、途中で転んだりしないよう気を付けるなら、宗司の会社に行くことを許可してあげるわ」幸恵は私の担当医っぽく、意図的に偉そうな言い方で冗談めかし、私を後押ししてくれた。
幸恵は「私も一緒に行こうか?」と提案してくれたが、私は断った。
これは私たち夫婦の問題。 自分たちで解決しないといけない。 その為、私は一人で夫の会社に向かった。 * * *電車を乗り継ぎ、私は宗司の会社に初めてやって来た。
これまで、宗司の会社を訪れる機会はなく、今回が最初の訪問だった。見上げる程の高層ビルは、私の実家が経営する大和田グループのビルに勝るとも劣らない立派な社屋だった。
私は宗司が担う責務の大きさを改めて実感した。 このビルにいる社員や業務など、ヒト・モノ・カネの全てに宗司は責任を持つのだ。 その重責の重さは計り知れない。 そう考えると、杵島グループの社屋の大きさに、私は怖ささえ覚えたが、意を決して入り口の自動ドアをくぐった。「確か社長室はビルの最上階だと宗司は言っていたはず……」
私は微かな記憶を頼りにエレベーターホールに向かう。
そして各階案内を見てみると、確かに最上階に社長室という記載があった。ここに宗司がいる。
私は迷子が親を見つけたような安堵感を覚え、エレベーターの呼び出しボタンを押そうと手を伸ばしたが、そうした矢先、私は受付の女性に呼び止められた。
「あの、お客様。失礼ですが、当ビルは社員でない方のご入館はお断りをしておりまして……」
「弊社社員とお約束でしょうか? もしそうでしたらこちらでお名前とご用件をお願い致します」私は受付に促された。
「私は杵島 充希です。約束はしていませんが、社長に会いたくて……。通していただいても宜しいですか?」
私がそう申し出ると、受付にいた二人の女性は怪訝そうに顔を見合わせた。
「杵島社長にお会いになりたいのですか?」
「失礼ですが、社長はご多忙で、お会いになるにはご予約が必要なのですが……」私は明らかに懐疑的な目で見られ、慌てて弁明をした。
「私は杵島 宗司の妻です。夫に話があって来たんです。直接、会って話がしたいのです」
私はそう訴えたが、受付の女性二人はますます困り顔になった。
「社長の奥様ですか……。あの、失礼ですが、もし宜しければ身分証明書か何かを見せていただけないでしょうか?」
私は自分が不審者だと疑われている事に気づき、慌てて身分証を証明できるものがないかバッグの中を確認した。
「社長の奥様でしたらスマホで直接社長にご連絡をされた方が良いかもしれませんが……」
そう言われたが、実は私は宗司の電話番号も、SNSなどの連絡ツールも何も知らされていなかった。
私は過去に、宗司に「もしもの時の為に、電話番号くらいは教えて欲しい」と申し出たが、偽装結婚なのでそんなものは必要ないと断られていたのだ。私は、宗司に直接連絡できない理由を「私たちは夫婦ですが偽装結婚なので連絡先を交換していないんです」とは言えず、苦し紛れに「スマホをなくしてしまって……」と嘘をついた。
受付の女性は一応は納得してくれたが、私のことを不審に思う気持ちは払拭されなかったようだった。
「ねえ、社長の奥様って、確か……」
「ええ。最近、総務に新しく入った女性が、実は社長婦人じゃないかって噂されているわよね……」 「そうよね。私も社長とその女性が一緒にいる姿を見たけど、とっても仲が良さそうだったわよ」 「それじゃあ、この女性は一体……? まさか社長夫人を語る偽者……?」受付の女性二人は顔を寄せ合って小声でヒソヒソと話したが、折悪しく、私は二人の会話の内容が聞こえてしまった。
私は今、自分がかなり不審に思われていることを痛感した。
そして、それもさることながら、自分以外の誰かが宗司の妻だと噂されていることに驚いた。どうしてそんなことが……!?
私は動揺し、ますます探し物が見つからなくなってしまった。
気持ちが焦り、乱暴にバッグの中を掻き回したが、その落ち着きのない様子が、ますます受付の女性二人の懐疑心を刺激してしまった。私は寝不足というコンディションもあって、気が動転しそうになったが、その時、「あの……。どうかしましたか?」と、声を掛けられた。
私が振り向くと、そこには一人の男性が立っていた。
「私は杵島社長の秘書の者です。失礼ですが、あなたは杵島社長の奥様ではありませんか?」
私は突然そう言われ、驚くと同時に、自分のことをわかってくれる人物が現れたことに喜んだ。
しかし同時に、どうしてこの秘書の方は、私が宗司の妻だとわかったのか不思議にも思った。 * * *「やはりそうでしたか」
私が宗司の妻であると伝えると、秘書の男性は笑顔になった。
「どうして奥様のことを存じ上げているのかというと、社長はご自分のデスクに奥様の写真を飾られていて、私はその写真を拝見したことがあったからです。
さらに社長は奥様の写真のことに触れられると、写真を見せながら奥様自慢をされるんですよ。ですので奥様のことはよく存じております。何やら料理がお得意で、オーブン料理がとても美味しいらしいですね」それを聞いて私は喜んだ。
宗司は私の写真をデスクに飾り、仕事をしてくれていたのだ。 仕事が忙しく、家にもなかなか帰れず、偽装結婚ということもあって、会社では私の事など気にもかけてくれていないと思っていたが、宗司は私のことをいつも身近に留めておいてくれていたのだ。 奥様自慢は少し恥ずかしかったが、私は身体の芯に小さな明かりが灯ったように温かみを感じた。 そして急速に自信が湧いてきた。 話し合えば大丈夫。昨晩は離婚届を突き付けられて動揺したけど、今ならちゃんと宗司と話し合える。 そしてそうすれば宗司も離婚届のことは何かの間違いだったと言ってくれる。 * * *秘書の男性は、受付の女性に内線で社長を呼ぶよう指示をしてくれた。
私は、ほっと胸を撫で下ろした。 危うく不審者と思われ、取り合ってもらえない所だったが、容疑は晴れ、これで宗司にも会うことができそうだ。しかし、内線で宗司を呼び出してくれていた受付の女性は、しばらくして眉を寄せると、申し訳なさそうに私に結果を伝えてきた。
「奥様、申し訳ありません。社長は今、席を外しておりまして……。どうやら昼食に出られているようなんです」
それを聞いて私は時計を確認する。
確かに今はちょうど昼休みの時間だった。すると秘書の男性が「きっと社長はすぐに戻られますよ。お掛けになってお待ちになってはいかがですか?」と私に来客用のソファを勧めてくれた。
私は「そうさせてもらいます」と言って、ソファに腰掛けた。程なくして私は温かいお茶を出してもらったが、そのお茶を一口いただいた時、私は先ほど、受付の女性二人が話していた噂話のことが気になった。
総務に新しく入った女性が社長の奥さんではないかと噂されている件だ。
私はあることをすぐに思い出す。
それは宗司が「彩寧が戻った」と言った言葉だ。 これが「最近、総務に入った女性」と合わさり、私はすぐに彩寧が宗司の妻だと勘違いされていることを推察した。私は言い知れぬ不安と胸騒ぎ、そして不快感を覚え、心が千々に引き裂かれた。
まさかよりにもよって彩寧が宗司の妻と勘違いされるなんて……。
私は胃がキュッと固くなり、吐き気にも似た悪寒が込み上げる不快感に襲われた。
そんな嫌な気持ちを和らげようと、私は温かいお茶をもう一口いただく。 温かいお茶が喉を通ることで、私はほっとした気持ちになり、どうにか落ち着きを取り戻すことができた。するとその時───。
私は宗司が帰ってくる姿を見つけた。
私は喜びでパッと笑顔になる。 しかし、次の瞬間、異変に気付いて表情が急速に強張った。宗司は一人ではなかった。
宗司は女性と一緒だった。そしてその女性は宗司の腕に抱きついていて、二人は談笑しながら会社に戻って来ていた。
その女性は彩寧だった。
私は自分の足元の床が崩れたかのような落下感を覚えた。
彩寧は宗司の妻だと会社で噂されている。 その事と相まって私は激しい眩暈に襲われた。そして楽しそうに談笑しながら歩く二人の姿を、私はただ黙って見ている事しかできなかった。
宗司は私に気付かず、そのまま彩寧と二人でエレベーターに乗り込んでいった。
* * *その後、私はどこをどう歩いて自宅に帰ったのか……。
それさえも覚えていない程、私はショックを受けていた。 そして自宅に戻ると、昨日、宗司に突き付けられた離婚届を取り出し、妻の欄に自分の名前をサインすると、そのまま身一つで家を飛び出した。------ 【登場人物】 ------ ▼杵島 充希(きじま みつき)/旧姓:大和田 充希 宗司と三年という期間限定の偽装結婚をするが双子を妊娠。 これを機に、偽装結婚を解消し、本当の夫婦になることを宗司に提案しようとするが、妊娠が判明したその日に、宗司から離婚届を突きつけられる。 ▼杵島 宗司(きじま そうじ) 充希の夫。充希とは幼馴染で、同じ中高一貫校に通った同級生。 充希が妊娠したことを知らずに離婚届を突きつける。 ▼藤堂 幸恵(とうどう さちえ) 充希の担当産婦人科医で親友。 充希、宗司と同じ中高一貫校の同級生で剣道部の部長。 ▼篠原 彩寧(しのはら あやね)/大和田 彩寧 充希の異母姉妹の妹。 中高一貫校の先輩である宗司が好きで、執着している。 ▼大和田 毅(おおわだ つよし) 充希の父。 大和田グループの社長。 ▼篠原 真紗代(しのはら まさよ)/大和田 真紗代 彩寧の母。大和田 毅の元妻。 自らの浮気が原因で大和田家を去る。 ▼忽那 碧(くつな みどり) 充希の産みの母。充希の父親の大和田 毅とは相思相愛。
私の父・大和田 毅は、大企業・大田和グループの社長の息子だった。 ゆくゆくは会社を継いで大和田グループの社長になる。 そのため、自由恋愛は許されず、結婚は父の周囲の大人たちが考える「ふさわしい相手」とすることが運命づけられていた。 しかし、父は私の産みの母・忽那 碧と恋に落ち、私を儲ける。 父は母・碧との結婚を強く願ったが周囲に反対され、結婚を許されなかった。 父は母と二人で駆け落ちまでしようと考えたが、それは母・碧が思いとどまるように説得した。 母・碧は父の将来を案じたのだ。 こうして二人は結婚を諦め、私は母ではなく父に引き取られ、育てられることとなったが、程なくして父は、周囲の大人が考える「ふさわしい相手」と結婚することが決まった。 それが彩寧の母・篠原 真紗代だった。 私の継母である真紗代の実家は旧華族の家柄で、今でも一定の財力と権威、そして政界との繋がりを維持していた。 その為、父の結婚相手に選ばれたのだが、真紗代は生まれた時からそうした家柄の「お嬢様」であったため、人にかしずかれることに慣れ、おごったり権力を笠に着るわけではないが、貴人であるように振る舞うきらいがあった。 幼少期の私は、そんな継母に邪険に扱われたわけではないが、継母は彩寧は猫可愛がりだったが、私に対しては「充希はお姉ちゃんなんだから我慢しなさい」という態度で、やはり「自分の子どもじゃない」という区別があることを私は子ども心に感じていた。 母親が恋しい年頃ではあったが、私も継母は「自分が甘える対象ではない」という認識で、十分に愛情を注いでもらえなくても寂しくはなかった。 幸い、産みの母である忽那 碧と、定期的に会えていたので私は救われていた。 そんな家庭環境ではあったが、幼い頃の私と彩寧は、「家の事情」など全く気にせず、母親は違えど、姉妹として仲良く過ごしていた。 ───彩寧と遊ばなくなったのはいつの頃からだっただろうか。 中高一貫校に入学した頃には、すでに関係が悪くなっていたので、私たちが小学生の頃にそうなってしまったのだろう。 しかし、何がきっかけであったかについては、私は全く心当たりがなかった。 しかし、その瞬間、私はある出来事
『でも油断しちゃダメよ。赤ちゃんたちから目を離さないでね』 最後に幸恵にそう念を押された私は、幸恵を安心させるために「わかった。そうする」と返事をして電話を切った。 しかし、幸恵には「油断しない」と返事をしたが、私は近頃、彩寧を信頼し、頼るようになっていた。 それだけ彩寧が真面目にベビーシッターの仕事に取り組み、私を助け、本人も子育てを楽しみ、赤ちゃんたちも彩寧に懐いていたからだ。 私は不意に胸がムズムズするような高揚感を覚える。 それは「幸福感」だった。 今の私はとても幸せだった。 宗司さんと結婚し、子どもも生まれ、長らく関係がギクシャクしていた彩寧との関係も雪解けが進んでいる。 胸のつっかえが小さくなったことで、押し込められていた幸福感が張り出し、私をウキウキとさせてくれたようだ。 私が寝室を出て、リビングに戻ると赤ちゃんたちはそれぞれのベビーベッドですやすやと寝ていて、彩寧も片付けや離乳食の準備を全て終えていたので、ダイニングテーブルで資格取得の為の勉強をしていた。 彩寧は、宗司さんのお父さんで、宗司さんが社長を務める会社を創業し、今は会社の会長職にある杵島 巧三氏の秘書となっていたので、秘書検定の資格を取ろうと頑張っていた。 彩寧が宗司さんの会社内で、どういう立場にあるのかはわからないが、私の家に来た当初は、まるで社長や会長の「愛人」であるかのような雰囲気で、服装やメイク、それにヘアースタイルが少し───いや、そこそこ派手だった。 しかし、今ではそんな様子はすっかりなくなり、以前の───私が知っている彩寧の状態に戻っていた。 私は黙々と勉強をする彩寧を邪魔しないよう、静かにソファに座ると、スヤスヤと眠る我が子たちを眺めた。 二人とも、まるで電池の切れた玩具のように眠っていた。「幸恵部長には私が充希の赤ちゃんのベビーシッターをしていることを報告したの?」 不意に彩寧が訊いてきた。 私は今しがた、幸恵に電話していたことを見抜かれたのかとドキリとしたが、別段、隠す事でもないので正直に彩寧に「う、うん。今、丁度、幸恵に電話をしたんだけど、彩寧がベビーシッターをしてくれることになったことを報告したところよ」と返事をした。「幸恵部長はびっくりしたでしょう
私は寝室に籠り、ドアを閉めるとスマホを取り出し、「ある相手」の電話番号をタップした。 事前にメッセンジャーアプリでメッセージを交わし、「文字でのやりとりではなく電話で話しましょう」という合意が成されていたので、相手はすぐに電話を受けてくれた。「久しぶりね、幸恵。やっとつわりが治まったのね」 その相手というのは私の担当産婦人科医で、私の中高一貫校時代の同級生で、そして親友でもある藤堂 幸恵だった。 私は久しぶりに幸恵と会話できることが嬉しくて、自然と笑顔でいっぱいになった。 幸恵は数カ月前より宗司さんの会社の秘書───鬼灯 猿田彦さんとお付き合いを始めていたが、先日、妊娠したことがわかり、秘書さんと結婚すべく、準備を開始していたが、重い「つわり」に苛まれ、一ヵ月ほど伏せっていたが、ようやくつわりが治まったという連絡があったので、こうして通話をすることになったのだ。『ごめんね、充希。つわりもそうだけど、結婚の準備も色々あって忙しかったの。それでその後、子育てはどう? 順調? 何か問題はない? 宗司はちゃんと育児に参加している?』 電話の先にいる幸恵は、すっかり元の幸恵に戻っていた。 つわりの最中の幸恵は本当に辛そうで、息も絶え絶えといった様子だったので、私は幸恵のつわりが治まって本当に良かったと思った。「私の育児はとても順調よ。宗司さんも仕事が忙しいのに、帰宅後はしっかり育児に参加してくれているわ」『そう。それはよかった。私がつわりで動けなくなる前、充希は慣れない育児で疲れている様子だったから心配していたの。もし宗司が仕事を理由に子育てに参加せず、充希を手伝っていなかったら、私が竹刀でぶっ叩いてやるところだったわよ』 中高一貫校時代、幸恵と宗司さんは同じ剣道部に所属し、幸恵は剣道部の部長、宗司さんは副部長だったが、その時の上下関係が今でも引き継がれていて、幸恵はこうして度々、当時の「鬼部長」と恐れられた幸恵に戻ることがあった。 今、この場に宗司さんがいたら、震えあがると同時に、育児に参加していてよかった、幸恵部長に竹刀で叩かれなくてよかったと思ったことだろう。『それで「報告」って何? 改まって電
『それじゃあ、今日、最後の相談』 崚佑がそう言うと、コメント欄がさらに荒れた。 ───時間があっという間だわ! ───もう一時間も経ったなんて信じられない! ───もっと読んで! ───もっと声を聞かせて! ───もっと私だけに笑顔を見せて!『ごめん。僕も明日仕事だから寝ないと。だから最後の質問を読むね。「嫌いな姉に子どもができた。これって姉と仲直りするきっかけにできる?」という質問』 その瞬間、私は雷にでも打たれたかのように身体を震わせた。 まるで後ろから突然、大声で「わっ!」と驚かされたようだった。 私はベッドから飛び起きると、ベッドの上で正座した。 両手でギュッとタブレットを握り、画面に顔を近づけて崚佑を凝視した。 ───私の質問だった。 ───どうしてだか、私がつい送ってしまった質問だった。 ───こんな質問、送るつもりなんてなかったのに……。 でも気が付いたら、心の奥底───そして頭の中で繰り返し鳴り響いているこの声を、質問入力フォームに入れてしまっていたのだ。 そんな質問が取り上げられた。 私が送った質問を画面の向こうの種村 崚佑が取り上げている。「でもどうせ答えは「寝たら治る」なんでしょ……?」 私はそういって諦めつつも、種村 崚佑の答えを心待ちにした。『これも寝たら治るね』 種村 崚佑は即座にそう言う。 そう私は身構えていたが───違った。 種村 崚佑の動きが止まった。 そして質問の文字をじっと見続けているようだ。 どうしたというのだろう? どんな質問にも即座にサクサクと「寝たら治る」と切り捨てていた種村 崚佑が、いったいどうしたというのだろう。 私はますます画面に顔を近づけた。『この質問は、今回が初投稿。サルーキさんが送ってくれたものだね。初めての投稿ありがとう。サルーキさんというハンドルネームもいいね。サルーキは狩猟犬の一種で、古くから存在する歴史ある犬種で、従順じゃない性格が特徴的な犬。そのため、「猫のように気分屋の犬」と言われていて、犬好きはもちろん猫好きにも愛されている。サルーキ
『種助の「ええやん、そんなこと☆知らんけど♪」のコーナーを始めるよ』 タブレット画面には動画を生配信している種村 崚佑の姿が映し出されていた。 ベッドに寝転んではいたが、彩寧はそんな崚佑の配信を真剣な目でみつめていた。 『このコーナーではみんなの悩みに僕が答える。いっぱい送ってきてくれているからサクサクと答えていくよ。まず最初は───』 そう言って配信者名「種助」こと種村 崚佑は、送られてきた視聴者の悩みにテキパキとコメントを返していった。 『「最近、肌荒れがひどい。肌のハリに衰えを感じる」だね。それなら今日は僕の配信を観るのをやめて、今すぐベッドに入って寝てください。睡眠が足りていないと肌の健康状態がすぐに悪くなる。たっぷり睡眠をとってみて。目に見えて肌のハリが戻るから。 次は「最近、髪がバサバサでヘアースタイルがまとまらない」だね。これも睡眠。とにかく寝て。 「目の下にクマができた」「肌にシミができた」「太った」「息が臭くなった気がする」どれも睡眠。みんなちゃんと寝て。寝たら治るから。 「職場の人間関係が辛い」「好きな相手に振り向いて貰えない」これも寝ること。睡眠が不足すると情緒が不安定になって、変に人間関係が気になるし、自分の魅力が相手に伝わらないから。 「お金持ちになりたい」これも寝るしかない。しっかり寝て起きたらお金持ちになる方法がきっと思いつく。 「食欲がない」これも寝ること。 「寝つけない」「朝起きられない」「休日はずっと寝て過ごしちゃう」これも寝ること。寝たら治る』 彩寧は溜息をついた。 「なによこれ。全部、寝るじゃない。どこがお悩み相談なのよ。これのどこが人気なのか全く理解できないわ」 しかし、コメント欄にはメッセージが溢れ、流れる文字が目で追えない程だった。 さらにイイネのハートも乱れ咲いていた。 「こんな配信を喜ぶなんてみんな単純ね。確かに種助の声はイケボだし、見た目も悪くないけど、カッコイイ男の人が喋っているのを見て嬉しがっているだけじゃない。コーナーの内容なんて、どうでもいいのね。 しかし、同時接続が二百五十人か……。私みたいに今、この動画を観ている視聴者がそんなにもいるのね……」
彩寧は翌日から我が家にベビーシッターとしてやってきた。 最初はとてもギクシャクしていたが、彩寧は赤ちゃんに粉ミルクを飲ませたり、離乳食を食べさせたり、オムツを交換したりする作業にすぐに慣れ、私の負担を軽減してくれた。 何より私にとって有難かったのは「誰かが私の代わりに赤ちゃんを見てくれている」という安心感だった。 これまでは一人だったので、例えば喉が渇いた際、冷蔵庫から飲み物を出して飲んでいる間も赤ちゃんを気にかけていなければならず、落ち着いて喉を潤すこともできなかったが、今は彩寧が赤ちゃんを見てくれているので、お手洗いにもゆっくり落ち着いて入れるようになり、私は子育ての間に気を緩める「気分転換」の暇を得ることができるようになったのだ。「彩寧がいてくれて、本当に大助かりだわ。彩寧、本当にありがとう」「…………お礼なんていらない。これは会社に言われた「仕事」なんだから」 彩寧はまだ完全に私に心を開いてくれているわけではなかったが、徐々に会話する言葉数は増えていた。 本当に少しずつではあるが、私は確実に雪解けが進んでいると感じていた。 そして、そんな状態が一ヵ月ほど続くと、彩寧の方にも変化が見られるようになった。「あれ? 彩寧、その紙袋はどうしたの?」 ある日、彩寧が家に来ると、赤ちゃん用品を専門に扱うお店の紙袋を提げていた。 中を開くと、赤ちゃん用の「よだれ掛け」が二つ出てきた。 それはとても可愛いデザインの「よだれ掛け」だった。「まさか、彩寧が私の子どもたちのために買ってきてくれたの?」 私がそう尋ねると彩寧は「こ、琴がすぐによだれでベタベタになるから……。それが煩わしいから……必要があると思ったから買ってきたのよ。それで琴だけに買ったら勇が不公平に思うじゃない。だから二つ買っただけよ」とモゴモゴと口ごもるように理由を答えてくれた。 それからというもの、彩寧は少しずつ赤ちゃん用品や玩具を買ってくるようになった。 そして、そうした自分の買ってきた品を琴と勇が喜んでくれる様子にとても喜んでいるようだった。 すると、今度は琴と勇に変化が現れ始めた。 二人は彩寧が好きになったのか、彩寧にとても懐き、彩寧が







